古墳を都市に挿入する「大阪計画2005」
五十嵐 宮本さんは、環境ノイズへのまなざしを建築家として、どういうふうに創作につなげていこうと思っているんですか。
宮本 そうですね。それはいちばん悩んでいるところです(笑)。この本を出版した後にアトリエ・ワンの貝島桃代さんにいわれたのですが、前半の「環境ノイズレメントを読む」はおもしろいけれど、後半の「クッキングアーバニズムで風景をつくる」は納得がいかないと(笑)。とても厳しい指摘なんですが、正しい読み方かも知れません。環境ノイズで建築をつくっていくことが本当に可能かを疑いながら本をつくったというのがありますから。
中沢 大丈夫ですよ。優れた文芸評論家が優れた小説書けるわけじゃないんですから(笑)。
宮本 建築は環境ノイズエレメント化しにくいといいながら、建築をつくっているんです。都市計画をやらせてくれれば(笑)。
中沢 宮本さんはウンベルト・エーコを目指せばいい。大文明評論家にして大作家っていう(笑)。
宮本 都市計画といえば、この本のなかで、古市古墳群のなかに首都機能を移転するという提案をしています。古墳がいっぱい並んでいるところに首都をもっていく。
中沢 なるほど。外国にも死者で脅しをかける(笑)。
宮本
格好いいと思うんですよね。古墳が邪魔して普通にまっすぐの道路が引けないから、おもしろい場所ができるに決まってる。古市古墳群の古墳を合わせた面積は、皇居の面積と同じなんですよ。つまり、これは皇居解体のメタファーともいえる(笑)。
なにしろ前方後円墳の形がすごくいい。そもそも、どうして鍵の形をしているか知っていますか? 丸い後円部のところに死者が祀られていて、台形の前方部は人間のための場所なんですよ。あそこで拝む。僕は勝手にそう思っていたんですが。
中沢
いろいろな説があるんですが、最近のおもしろい説は、先代の天皇が亡くなったときに、その円形部分のなかにご遺体を置き、天皇霊を新しい天皇に移すという儀礼が行われていたというものです。おもしろいやり方をしたみたいですね。真床追衾 (まどこおうふすま)という布で、新しい天皇と先帝のご遺体を一緒に覆うんです。そのなかで天皇霊が先帝から移されて、新しい天皇になる。
前方後円墳の突端部は舞台のようなもので、天皇霊をまとった新しい天皇の姿を人びとの前に出すという「みあれ」という儀式をやっていたというのが、寺沢薫さんたちの説です。なかなかおもしろい考え方だと思いますね。
宮本
寺沢さんの説は知りませんでしたが、僕もステージだと思っていました。ステージだから後円部に向かって勾配をつけて見えやすくしているんですね。だから自動的にあのような台形になる。かなり必然性をもった形じゃないかなと思っています。
前方後円墳を取り込んで都市をつくると、古墳がもつ幾何学が都市に挿入されるから、都市に中心線が出てくるし、放射状の補助線を引きやすくなる。前方部にテーパーがついてますから、その延長上に焦点が現われる。すごいおもしろい街ができるはずだっていう読みがあるんです。
中沢 前方後円墳構造というのは、都市構造としてはなかなかユニークですね。たしかに、それはいままでにない(笑)。
五十嵐 このプロジェクトは丹下健三の「東京計画1960」に対する「大阪計画2005」というもので、この本の最後に載っています。丹下さんの計画が海に向かってなにもないところに人工大地をつくってまっすぐな軸線をつくるのに対して、古墳を縫うように新しい幾何学パターンを残していくという話です。
宮本 丹下さんの「東京計画1960」は東京を空中に浮かしてしまいますが、それは卑怯でしょう(笑)。
中沢 それじゃあ、宮本さんは人生の目標点ははっきりしたじゃない。それつくればいいんですよ(笑)。
薄く軽やかな「縄文」
五十嵐 中沢さんにお聞きしたいんですが、建築史だと縄文、弥生というキーワードが50年代に議論になり、日本の伝統論がひとつの型として語られた時代がありました。そして最近は藤森照信さんの縄文建築団が活躍されていますが、どうご覧になっていますか。
中沢
藤森さんのいう縄文はいままでの縄文とはちがうんですよ(笑)。いままでの縄文というのはいわばでっち上げです。岡本太郎ファンがいたら申し訳ないけれど、岡本さんにもかなり責任があると思います。
縄文というのははっきりしない概念で、世界にない。世界史だと新石器の文化として理解されるものですけれど、縄目模様を強調して芸術的に発達させていた信州から甲州の土器、北陸の火焔土器、水煙土器、それからかなり後期に東北の亀ヶ岡遺跡などに見られる縄目模様を取り出して「縄文」というようになった。それが、日本列島に住んでいた過去の先祖たちに対する日本人の愛着と誇りを表現するものになり、弥生と対照的に、爆発的な表現をしたものが縄文だというふうにいわれてきたんですが、はたしてそうなのか。
最近、雑誌の「縄文聖地巡礼」という連載で、坂本龍一といろいろ歩いているんですけれど、ことにこの印象を強くしたのが福井の縄文土器と鹿児島の縄文土器です。これは縄文初期よりも前の草創期といわれているころの土器なんですが、弥生土器とほとんど変わらないくらいの洗練さ。薄肉で縄目模様ではなく貝殻模様です。草創期のほうが弥生にずっと近いという、非常にパラドキシカルな状況があるんですね。
鎌倉以降のことだと思うんですが、縄文的なものと弥生的なものの対立というかたちがつくられてきた。近世社会がつくられたとき、縄文的なものを抑圧して弥生的なものが社会の前面に出てきたけれど、ときどき縄文的なものが噴出してくる。これは、日本史の解読法としては非常にすっきりするんですけれど、はたしてほんとうに、縄文文化はそういうものであったのか。
縄文土器っていうのはすごく繊細で、ある部分では非常に華奢につくってあるんですね。それをつくった人びとの思考というのはとてもデリケート。弥生のほうが非常にハードにつくってあるという側面があるから、いままで縄文として語られてきたことは本当なのか、問い直してみなければいけない問題だと思いますね。その結果、岡本さんたちがいってたことはやっぱり正しかったとなるかもしれないし、いや、縄文はもっと複雑でいままで考えられていたようなイメージはその一部を取り出したにすぎない、ということになるかもしれません。日本史の理解において、弥生的なものと縄文的なものの対立という、いままでの解読法に収まらない部分がいっぱい出てくると思うんですね。網野さんの歴史学というのはそういうのを目指しているような気がしてるんです。
藤森さんは「縄文」といっていますけれど、それはイメージや概念としてつくられた縄文じゃないですね。藤森さん自身が諏訪で育って、縄文がなんたるか肌身で知っている。縄文っていうのは、本当は薄手のものを愛好していて、すごく軽やかな考え方をしていたということを、イメージとして描いている。渡辺豊和さんがいう縄文のイメージとは違うものを考えていらっしゃるなあと感じています。